4年目の雑感(2019年1月)

複数の方のお誘いを断り、3年ぶりくらいに一人で、4年目の命日に墓参りに行った。偶然仕事に隙間ができ、子供も人に任せていたので、自転車にて墓地まで30分ほどかけて移動した。すると彼女の死後には訪れてなかった、いくつかの思い出の地も通過することとなり、彼女と過ごした月日の長さを感じさせた。

久しぶりに一人で墓参りに行けば、多少は彼女の声が心に返ってくるのではないか、という淡い期待は当然打ち砕かれ、墓地は静かなままだった。宗教的な行為は好きではないので、特に何もするでもなく(少し掃除はしたが)、単に未だに残る悲しみと対峙する時間となった。

一人で行ったのには理由がある。この一年間で私は様々な決断をした。それらは全ての人々を納得させるものではなかったが、子どもたちを大人の都合で振り回したくない、という考えの基での判断であった。この考えに立つと、大人たちとの墓参りも、子どもたちを傷つける可能性が(わずかではあったとしても)存在しており、慎重にならざるを得なかった。

実は私自身も、避けたい気持ちがあった。英美を通じた人との繋がりにおいては、英美の話題は避けては通れない(もちろん、英美を通じて私と直接の友人となり、多様な内容で会話をしてくださる方々も多数いるが)。しかしながら、すでに彼女の話題は私を苦しめるだけである。他人が抱いている英美の人物像と、長年側で連れ添った私から見た人物像は、違う。思い出話をしていただいたものの、心の中で”違う”と感じざるを得なかったことも、これまでにも何度かあった。唯一訂正可能な当人がすでにいない今、どちらが正しいかは決められないし、決めることに意味はない。しかし、このすれ違いは私にとって苦しい。私が抱く彼女に関する記憶は、他人が持つそれより美しく、そしてより痛みの伴うものであることは間違いない。

おそらく子どもたちも、父の気持ちはわかってくれるだろう。すでに存在しない母の話をいくら聞いたとしても、本当の人物像は出てこない。そして想像より良い人物像を語られても寂しく、悪い像を語られても悲しく感じるだろう。それは子どもたちにとって楽しい場ではないだろう。一方で、子どもたちはすでに自分たちの世界を作り、自分たちで休みの過ごし方を決めている。それならば、可能な限り自分たちの考えで、今を楽しんでほしいと思う。大事なのは現在であり、今後なのだから。

つまるところ、かけがえのない人を失ったのだな、と感じる。月並みな表現ではあるが、この言葉の意味を以前より深く理解できるようになった気がする。彼女がいてこその、繋がり・広がりが、かつては存在したのだ。残念ながら、それはもう取り戻せない。だとすれば、思い出は胸の中に留め、前に進むしかないのだろう。

以上、綺麗事を書いてしまったようで恐縮であるが、現在の雑感である。これまで私の至らなさで多くの方にご迷惑をかけ、お世話になった。ここに御礼申し上げる。

(帰りにドン・キホーテに寄って安ワイン買ってきて、夕食時に飲みながら子どもたちに墓参りに行ったことを報告しました。)

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